Killer.berlin.doc

1970年代、子供たちの間で「殺人ゲーム」が流行した。ルールは次のとおり。 10人程の子供が部屋に集まり、くじ引きで探偵を決める。その子が部屋の外で待っている間にもう一度くじを引き、今度は殺人犯を決める。部屋の灯りを消し、暗闇の中で殺人が行われる。犠牲者の悲鳴が聞こえたら、探偵は部屋の中に入り、取り調べを始めてよいという決まりだった。

この「殺人ゲーム」に親たちは顔をしかめ、子供たちは夢中になった。時の首相ヘルムート・シュミットの提唱する社民主義的「モデル・ドイッチュランド」に基づく退屈な大人の世界に比べ、殺人犯が身近にいる世界にはどれだけわくわくしたことか。こうやって遊ぶことによって、漠然とした幼児期の不安を吐き出していたのかもしれない。その不安はそれほど漠然としていたわけではなかったのかもしれない。このゲームは大人が語りたがらない、大人だけの世界に足を踏み入れようとする試みだったのかもしれない。

1992年、フィクションと現実を組み合わせるというテーマで、種々のメディアを用いたイベントがBotschaft e.V. という団体によって計画された。Botschaft e.V. は、80年代の住宅占拠運動から派生した西ベルリンのアンダーグラウンド・カルチャー・シーンにそれまで色々な形で関わってきた様々な分野のアーティスト達の集まりだった。ドキュメタリー映画のグループ、ドッグフィルムも後1991年にその中から(ティナ・エラーカンプイェルグ・ハイトマンメーレ・クルーガーエド・ファン・メンゲンそしてフィリップ・シェフナーによって)設立されたものである。

このイベントで、「殺人ゲーム」の大人版とも言える「殺し屋ゲーム (Killer)」をやることになった。ベルリンでは初めての試みだった。「殺し屋ゲーム」はオランダから入ってきたものだとされるが、都市伝説が全てそうであるように、その起源ははっきりしない。プレーヤーは他のプレーヤーを「殺す」使命を 受け、それを遂行する過程で現実と虚構の境界を彷徨い、そこから様々なインスピレーションを得るのをねらった。ドッグフィルムメーカーのイェルグ・ハイトマンによると、誰も真面目にゲームをプレイしようとせず、その結果は散々なものだったらしい。同イベントの一環として催されたラジコンカーレースの方が評判だったという。

ゲームは忘れ去られ、ドッグフィルムは他の題材で作品制作活動を続けた。arte(独仏共同衛星放送チャンネル)で放映された、ソープオペラについての3時間番組 Soap oder das Leben ist eine Seifenoper(1996〜1997)も虚構と現実という難しい問題に焦点をあてたものだったが、そのテーマ自体は彼らの日常の現実とは直接関係が無かった。「だから今度は身近な環境についての映画を撮りたくなった」とイェルグ・ハイトマンは言う。ベルリンは「正常化」していく中で、インディペンデントおよびオルタネティブなカルチャーシーンの発展できる空間は目に見えて減ってきている。統一直後の高揚感が過ぎ去り、今まさに危機に襲われつつあるアーティスト達、多国籍なボヘミアン・インテリゲンチアについての記録映画を撮りたくなったと。

サブカルチャーシーンで活躍する面々とのインタビューから構成される普通のドキュメンタリー形式の映画ではつまらないと感じ、遊び心もあり「プレーヤー訓を厳守できそうな」10人に声をかけ、殺し屋ゲームに参加してもらうことにした。「殺し屋ゲームは私達の生活について語るための手段だった」とティナ・エラーカンプは語る。ドッグフィルムおよびプレーヤー各人は、ゲーム中の出来事をディクタフォンや、日記、色々なカメラ(スーパー8、デジタルビデオ、ベータカム)を使って記録したのだ。

大人版の殺し屋ゲームでは、プレーヤー同士はお互いを知らないこと、というルールがあった。暗い部屋の中ではなく、ベルリンの街のあちこちで実施されたゲームは、15分で終わらず、2週間続いた。殺し屋1人犠牲者1人ではなく、10人の殺し屋と10人の犠牲者がいた。もちろんお互いのプライバシーは侵害しない、暴力も許されないという了解のもとで。

ゲームに参加することを同意したのは下記の10人。ビデオアーティスト羽田明子、漫画家マックス・アンダーソン、ミュージシャンアレクサンダー・クリストウ、映画館プログラム担当者コーネリア・クラウス、スーパー8映画作家ダギー・ブルンダート、建築写真家エリザベス・フェリチェラ、役者のバーバラ・フィリップ, ローズヴィータ・クライルディーター・ケルシュミュージシャン&DJジム・ラステッド、そしてコンセプチュアル・アーティストのクラウス・ヴェーバー

ターゲットの名前、住所、生活情報が書かれた写真付き使命書を各人が受け取り、その暗殺手段は自分で決めることになっていた。また暗殺計画実行の際は、ドッグフィルムメーカー達がカメラを持って駆けつけられるよう、事前に知らせる決まりだった。プレーヤーが選んだのは推理小説によく出てくる凶器のおもちゃ版。毒薬(粉にしたアスピリンを飲み物に混ぜる)、自動車に仕掛けられた爆弾(コカコーラの空缶を黒く塗り、車のバンパーに紐で結びつけたもの:出典はアストリッド・リングレンの小説か?)、相手のポケットに入れる放射性物質の包み、日光浴中の相手の靴にしのびこませるプラスチック製の毒グモ、爆弾が爆発するまでのカウントダウンが暗号として隠されているFAX、バイクに貼られた殺人シール。中でもビデオアーティストの羽田明子は特に創意に富んだ方法で殺される。彼女の可愛がっているうさぎのぬいぐるみの一つが殺し屋に誘拐され、その命と引き替えに切腹を迫られるのだ。

killer.berlin.docはフィクションの要素が混じった記録映画であり、様々な層が非連続的に姿を現す。これはまた、アーティスト達の私的ポートレイトであり、変動す るベルリンを映して稀にも美しい建築映画でもあり、1998年5月の2週間に焦点をあてた、複数の声で語られる日記でもある。 映画人集団ドッグフィルムは、ゲームの参加者個々人が撮った日記風のスーパー8やビデオ素材をも見事に調和させて、説得力のある映画を作った。そのイメージ構成は優れて独創的と言える。ドキュメンタリーとフィクションとの行き来は滑らかで、ゲームの参加者のみならず誰もが感じる不安な気持ちが構成の上でも反映される。ここでのベルリンは蒼ざめた夢景色、様々な願望の投影画、そして建築様式の百花繚乱の図である。
このゲームは街を改造していく。「日常生活が微妙に変わっていく。現実の予定があり、ゲームのためにこしらえた予定がある。現実に辿る道があり、殺し屋として辿る道がある・・・」とローズヴィータ・クライルは語る。

「相変わらず怠惰な毎日で、ビールの飲みすぎ。12時まで寝て、その後はゴロゴロするだけで、まるでゾンビー状態。俺の探偵としてのキャリアはどうやらもうおしまいだ。」とは漫画家マックス・アンダーソンのセリフ。

殺しが止められなくて、自分の死後も幽霊として活動を続ける者もいれば、ゲームから引退する者もいた。エリザベス・フェリチェラは彼女を狙う殺し屋ダギー・ブルンダートとのかくれんぼにウンザリし、トレプトウのソビエト軍指揮官記念像の前での決闘を申し込む。ジム・ラステッドはターゲットであるエリザベス・フェリチェラへの敬意から、殺しの使命を返上すべく、彼女を訪れる。「2人でバルコニーに立って、ロンドンやニューヨークのこと、このゲームのこと、2人とも自分の日常生活を段取りする才覚が皆無なこと等、色々お喋りした。ジムの話し方は飾らず、明瞭だった」とエリザベス・フェリチェラは語る。

ユダヤ人虐殺計画が決起された場所で殺人ゲームをするなど不謹慎だとのそしり をうけるかもしれない。(もしくはその史実も知らない馬鹿者なのか?)だがそ もそもベルリンで暮らすということが、汚染された地で暮らすことを意味するの だ。ターゲットの1人がベルリン、ミッテ地区のユダヤ人墓地で朗読していると ころを監視される場面がある。この朗読会は墓地にある記念碑が襲撃されたこと に抗議して催されたものであり、この作品が云うところの日常生活の一部なので ある。封鎖されたベルリン救援作戦「空に架ける橋」50周年記念のクリントン 訪問もそうであり、ホッペガルテン競馬場への遠足も、ユーロビジョン・コンテス トのライブ中継もそうだ。「ピーッ、ピーッ、ピーッ、愛してるぜ」と唄うドイ ツ代表ギルド・ホーンの大げさな情念や、それに応えて国中に湧き起こった偽物 フィーリングは、ゲーム参加者たちの-果てしなく本物っぽい作り物の感情や、 ベルリンテクノシーンのドラッグフィーバーや、映画監督であり劇演出家である クリストフ・シュリンゲンジーフが「俺だっているんだ、って言ってやれよ」を モットーに1998年に起ち上げたアート政党「チャンス2000」や、大勢の 失業者たちに符号する。killer.berlin.docを構成するシミュレートされた筋立てのいずれも、90年代 末のベルリンの現実で見られるものだ。

「超デッカクって、ウッソーみたいなバブルの中で暮らしてるって感じぃ。それ がなんかフツーで、アタリマエで、他にもそんな人いっぱいいるしぃ」とはバーバラ・フィリップ。フロイトいわく「子供は受動的な経験から能動的遊びへと移行 することにより、それまで自分が体験してきたのと同じ様な不快さを遊び仲間に 与える。替え玉に復讐するのである」。この映画は都市空間に復讐を企てようと しているのかもしれない。

デトレフ・クールブロート (映画評論家)
翻訳: 野村志乃婦・羽田明子


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